アニメ感想

上原歩夢の孤立ではなく自立―「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」第12話感想

前回の記事では高咲侑にのみスポットを当てていきましたので、上原歩夢について語る今回は第11話から話していきましょう。

どんどん前に進んでいく侑と置いていかれる歩夢という構図は何度か書いている通りで、バス停のシーンが象徴的です。

「打ち合わせが終わったら部室に行く」と言った侑はバスに乗り込み、歩夢はバス停に残っています。バスが下手(画面左)から上手(画面右)に行くのがポイントで、上手は一般的に強さと主体性があり、能動的なポジションです。一方で下手は弱者、受動的なポジションです。すごく示唆的なシーンですよね。ここらへんは「花陽の席はなぜ廊下側なのか」という短い記事で簡単に紹介しているのでチェックしてみてください。12話でも、歩夢が極端に下手に寄っているカットが出てきましたね。

11話はその後も、口々に会場の希望を言う虹ヶ咲メンバーの中で歩夢一人だけが言えなかったりするなど、どんどん前に進んでいくメンバーの中で歩むだけが波に乗ることができません。結局それがなぜかというと、鬼を退治する人の言葉を借りれば「生殺与奪の権を他人に握らせている」からなんです。

上原歩夢はなぜ不安を感じるのか

自分が知らない侑が生まれることに不安を覚える歩夢。11話の最後で侑の家を尋ねる際に映った非常口のマークのように、侑の存在は歩夢にとっての“駆け込み寺”だったのでしょう。何があっても、侑が認めてくれたら、近くにいてくれたら大丈夫。その侑が「もっと先のこと」を見据えてどんどん遠くにいってしまう。その不安が大きい。

では、なぜ不安なのか? 「私の夢を一緒に見てくれるって、ずっと隣にいてくれるって言ったじゃない」とは歩夢の弁ですが、自分の夢を自分で叶えられるか、一人で進むことができるかが不安なのですね。

好きと言ってくれる人は他に(見えて)いない。かといって中須かすみのように、表現したい具体的なものへのエネルギーで突っ走れるわけでもない。めちゃくちゃ端的に言えば、自信がない。

だから、歩夢はスクールアイドルはやりたいけれど、その動機の半分を侑に委ねています。歩夢はスクールアイドルとしてのアイデンティティの半分を侑に明け渡しているから、自分一人ではスクールアイドルとして何がしたいのかわからず、侑が離れることに不安を覚えてしまうのです。

……と考えると、彼女たちがスクールアイドルを始めたシーンを今一度振り返る必要がありそうです。

上原歩夢の二つの誤算

侑が優木せつ菜のライブをきっかけにスクールアイドルにのめり込んだものの、虹ヶ咲学園のスクールアイドル同好会は消滅。諦めかけていたところに「二人で始めようよ」と持ちかけたのが歩夢でした。

スクールアイドルをやってみたいという歩夢。その動機は、自分の気持ちをまっすぐに伝えるスクールアイドルの姿に驚嘆するとともに、「あんなふうにできたら、なんてステキだろう」と憧れたから。自分の気持ちに素直になりたいからです。

1話でも、可愛らしいアイテムに対して「もうそんな年じゃない」と言っていた歩夢ですが、今まで彼女は自分の気持ちを押し殺しがちにしていたのだと思います。でも、自分の気持ちを押し殺し続けて平気な人なんていません。歩夢だって好きを好きと言いたい。だからこそ、気持ちをまっすぐに表現するスクールアイドルを始めたいと願った。

と同時に、彼女は侑のためにスクールアイドルを始めた部分もあるはずです。「二人で始めようよ」と持ちかける直前のシーンで、侑は「夢を追いかけている人を応援できたら、私も何かが始まる。そんな気がしたんだけどな」と言っている。それは「夢を追いかけている人」つまりスクールアイドルがいないと始まらないわけですが、歩夢自身がスクールアイドルになることで、侑の「何か」が始まるきっかけを作りたいと思ったのではないでしょうか。

こうして二人で始めたはいいものの、歩夢にとって二つの“誤算”生じてしまった。一つは侑が自分の知らない「何か」を始め、自分とは違う道に進もうとしていること。

12話の「侑ちゃんが一緒じゃなきゃ、私は一歩も前に進めないよ」とは、歩夢の不安が一気に噴出した末の言葉でした。自分を必要とし、自分を認めてくれる――もしかしたら唯一の――人が侑だった。その侑が一人で知らない道に進もうとしている。ずっと自分を応援してくれるのではなかったのか? 応援してくれる人がいなければ、「まだこれから」である自分のスクールアイドルの夢を追うことなんてできない。だって、自分の良いところなんてわからないし、自信もない。それを与えてくれるのは侑ちゃんだけだから……。

と、思っていたはずなんです。でもそれがスクールアイドルフェスティバルを機に、いえもしかしたらもっと前から変わっていた。それがもう一つの歩夢の誤算でした。

「好き」が増えていくことへの戸惑い

「自分では良いところなんてわからない」そう言っていた歩夢にも、熱心なファンがいます。今日子を始めとする1年生3人は、歩夢と一緒のスクールアイドルフェスティバルをもっともっと良いものにしようと懸命です。

自信がなく、気持ちを押し殺しながら過ごしてきた歩夢。良いところなんてあるのかわからない自分でも一緒にいてくれる侑は、歩夢にとってものすごく大きな存在です。だからこそ侑さえいてくれればいいし、逆に侑が離れてしまうことがものすごく怖い。上原歩夢という人間を受け止めてくれる侑がいるから、上原歩夢は存在することができる。アイデンティティを侑に委ねているんですね。

けれど、スクールアイドルを始めたことで侑以外にも上原歩夢という人間を受け止めてくれる人が出てきた(この点がこれまでの物語でもっと表現されていればより良かったのですが)。「他のスクールアイドルのファンにも、歩夢ちゃんの良さをアピールできるものにしたいんです」という今日子たちには、歩夢の良いところがちゃんと見えています。そんなふうに応援してくれている人のことは、やっぱり好きになるもの。そう、スクールアイドルを始めたことで、かわいいものと侑で構成されていた歩夢の世界が、少しずつ広がっているのです。

でも、本当にそれでいいの? 侑ちゃんから離れていいの? このまま自分の世界を広げていって、自分の気持ちを表現していって、侑ちゃんのいない世界を作っていっても、私は大丈夫なの? 自分自身と向き合い、やりたいことを表現しだしたら、それはもう止まらない。侑とは違う自分の世界が広がっていく。それで本当に大丈夫なのか――今の歩夢は、例えるならば子犬が恐る恐る前足を踏み出そうとしている瞬間です。スクールアイドルを始めたことで大切にしたい存在が増えていく今を、本当に受け入れていいのか迷っている。

そんな「好き」が増えていくことで戸惑う歩夢の背中を押したのが、大好きを叫ぶ女・優木せつ菜でした。

高咲侑になった上原歩夢

先ほど振り返ったように、歩夢と侑は二人でスクールアイドルを始めました。自分と侑は同じ夢を見るんだと歩夢は思っていたはずです。

けれど、そもそも二人のやりたいことは最初から違っていた。侑は夢を追いかけている人を応援することで、何かが始まるきっかけを作りたかった。歩夢は自分の気持ちに素直になり、好きなものを自由に表現したかった。

気持ちを表現したい人にとって、その気持ちを受け止めてくれる人が必要です。当初、歩夢にとってのそれは侑しかいなかった。けれどいざ自分の「好き」を表現し始めたら、侑の他にも受け止めてくれる人が出てきました。

それで大丈夫なんだと、せつ菜は言っています。そうやって好きを広げていっていいし、新しく好きになった人のために表現していい。どうせやめられないんだから、自分のやりたいことやろうぜ。一度スクールアイドルを辞めながら、巡り巡ってまたステージに立っている。そんなせつ菜の歩みを歩夢自身も知っているからこそ、彼女の言葉が歩夢に響いたのかもしれません。何よりせつ菜自身が、同じスクールアイドルとして歩夢のやりたいことを認めてくれたのです。

思えば、歩夢と侑は似た者同士なのかもしれません。二人とも、他人のためにスクールアイドルを始めた部分が少なからずあった。侑の動機は夢を追いかけている人の応援だったし、歩夢は夢を追いかけている人“役”になることで侑のきっかけになろうとした。

そうやって始めたスクールアイドル活動の中で、侑の中に自分の夢が生まれていきました。当初、歩夢は大きなの理解者である侑が自分から離れてしまうことに不安を覚えましたが、新たな理解者である今日子たちの存在、そして異なる夢を追うことになったとしても侑は変わらず隣にいてくれることを理解した。この二つを知ったことで、歩夢は孤立ではなく自立することができた。ゆえに歩夢も、「夢を追いかけている人を応援する」ことができるようになったのです。

イエローの「愛」でステージをいっぱいにしてくれた今日子たちもきっと、こんなふうに夢を追いかけている人を応援することで、自分自身の夢を生み出していくのでしょう。

階段の踊り場で歌ったあとに「勇気も自身も全然だから、これが精いっぱい」と告白する歩夢を、侑は受け入れた。ピアノで自作の曲を弾いたあとに「今の私には、ここまでが精いっぱい」と打ち明ける侑を、歩夢は肯定した。自立しながらも本当の意味でお互いを理解し、溶け合ったラストシーンでした。

POSTED COMMENT

  1. 椿(Chin) より:

    「みんな、大好き!」
    これを待ってた。
    第一話と同じ表情から、今度こそ素直な感情の発露として抱きしめに行く。しかも、侑一人ではなく “みんな” を。
    散りばめられたセリフやその後の展開も含めて、画の作りは始まりの地点に向けてドンドン収斂して行くのに、物語は逆に大きく大きく拡散していく。見事な大団円だったと思います。

    シリーズを観てきて、勝手に思っている事があります。
    μ’sのメンバーって、きっといつまでも一緒に居るんだろうなと。
    大学に行っても社会人になっても、夕方になると二人でも三人ででも集まるメンツが必ず居て、何かと理由つけてパーティーやったり。9人の結束が固く見えて、離れている姿が想像できないんですよね。
    逆にAqoursは、作品内でも語られたように別れた姿が想像できる。で、たまに里帰りした時に声掛けると集まってくれるけど全員じゃないのが常で、ともすると美渡姉とかも混じっちゃって、時間もきっかりでなく三々五々集まって、三々五々散っていく感じ。
    そして虹ヶ咲のメンバーは、集まる事は無いんじゃないかな?と思っています。
    淡白だとか薄情って事じゃなくて、合わなくても繋がっている。青春の一ページを彩った輝かしい思い出は決して色褪せることなく、それぞれの人生の根幹として残っていく。萩尾望都の名作「11人いる!」のラストのような、そんな仲間で居てくれるんじゃないかな?って想像(妄想?)しています。

    • ばかいぬ より:

      シリーズ作品としての根幹は同じものがあるのに、メンバーのあり方が三者三様で全然違うのがおもしろいですよね。
      虹ヶ咲は個とインターネットの時代である現代らしいスクールアイドルだなと強く感じていて、
      それぞれが好きなことをやっているからこそ安心してお互いに放っておけるような、そんな関係性を感じます。
      親友ほど連絡を取らない、みたいな具合かもしれませんね。

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