生徒会長を超える理事長という存在、3人での活動、初のライブ……この3話は、1話、2話で隠れていた要素、ぼんやりしていた表現が一気に輪郭を帯びた30分でした。物語に必要な単なる要素というよりも、Aqoursのあり方そのものが顕わになりました。
だからでしょうか、このエピソードのサブタイトルは「ファーストライブ」ではなく「ファーストステップ」でした。
小原鞠莉という人
この学校の新たな理事長として、2年生3人の前に姿を現した小原鞠莉。現役の3年生にして理事長に就任するという展開に、2年生も、生徒会長にして同級生である黒澤ダイヤも戸惑いを隠せません。
「でも」と何か言おうとする渡辺曜には「紅茶、飲みたい?」と突拍子もないことを言い出す。ダイヤのお小言にはカーテンを開けながら「シャイニー!」と完全スルー。とってもマイペースで、相手にそのペースを崩す隙も与えない。ある種の力強さを感じます。
一方で、スクールアイドルを始めたばかりの2年生に、ライブの場として体育館を用意。その上で、ここを満員にしなければ解散という条件を付けます。体育館を使う条件ではなく、使った上で続けるか否かに条件を付けるというやり手ぶり。全校生徒を集めても満員にはならないということを分かってこんな条件を出す彼女には、狡猾さすら感じられるほどです。
しかし桜内梨子が気づいたように、「そのくらいできなきゃ、この先もダメということ」なのです。その自由奔放さと爛漫さに隠れていますが、成功するにしろ失敗するにしろ、2年生たちが納得できる道を、彼女は用意している。ダイヤも鞠莉も、やさしいんですよね。
だからこそ、松浦果南を含め、彼女たちにとって「スクールアイドル」とは一体なんなのかが気になります。スクールアイドルをやめさせようとするダイヤ、話題にしたくない果南、試すように見守る鞠莉。3年生の中の「スクールアイドル」とはどんな意味をもつのか、今はその答えが語られることを待ちたいと思います。
Aqoursのライブに観客が集まった理由
「うまくいきそうなの? ライブは」
「うん、いくといいけど」
ライブ直前までのAqoursの活動は、うまくいったりいかなかったりでした。「ゴージャス!」な曲はできた。ダンスはまだ細部を詰めている。ビラ配りは順調で、曜のファンらしき人もできた。でも町内放送はある意味でアピールになったかもしれないけれど、失敗。何もかもうまくいったわけでもなければ、決してダメなわけでもない。普通です。
しかしその中で、Aqoursは確実にその種を蒔いていたのでした。
体育館を満員にできれば、部として認められる。その結果は、幕が上がった瞬間にわかりました。パフォーマンスをする前に自分たちの行く末がわかってしまうのは、結構残酷です。しかし、そこでリバウンドメンタリティを発揮しなければならないのが、ステージに立つ者。
「その輝きと」「諦めない気持ちと」「信じる力に憧れ、スクールアイドルを始めました」。高海千歌たちが顔を上げることができたのは、μ’sという心の支えがあったからです。ライブ前に千歌がμ’sのファーストライブの話題を出していましたが、たった一人の観客のためにライブを行ったという当時の逸話が、今も語り継がれているのかもしれません。「スクールアイドル、μ’s」を目標にするならば、こんなことでくじけてはいられないのです。
きっと、同じことを言う子たちはいっぱいいるのでしょう。Aqoursの物語は、そのうちのひとつ。だから「普通」なんですよね。2年生だけ見ても、3人がボケ・ツッコミ役をとっかえひっかえしているのが、すごく自然な、普通の女の子という感じ。千歌の「戻ってきたぁー」というセリフも、芝居くさくありません。とっても今風。
だからこそ、停電によるライブの中断は、彼女たちにとってとてもショッキングでした。再び試されるリバウンドメンタリティ。もう一度歌おうとするも、涙がこみ上げてきて歌えない。当たり前です、普通の女の子だもの。こんな、μ’sも体験したことのないような状況になってしまったら、いくらなんでも心が折れてしまう。だって、「普通」だから。
でも、1人では、3人ではどうしようもできないことも、みんなの助けでどうにかできる。千歌の周りには、この町には、呼びかけた声にちゃんと応えてくれる人がいるのです。「大丈夫よ。みんな、あたたかいから」。そういう町なのです。
振り返れば、この3話には“田舎”を感じさせる表現が頻出していました。町内放送、地元ではなく高校の多い沼津でのビラ配り(ひっくり返せば、地元には学校が少ないということ)、「東京で最先端の言葉」「東京に比べると人は少ないけど、やっぱり都会ね」「人、少ないですからね。ここらへん」という言葉。
“田舎”は一見するとディスアドバンテージのように見えますが、“田舎”だからこそ取れる人との距離感があります。他の誰でもない、「スクールアイドル? アンタが?」「こんな田舎じゃムリだって」とバカにしていた姉の高海美渡が、3人のがんばりを見て、何枚ものポスターを貼り付けて思い切りPRしていました。「ホントだ、私、バカチカだ」という千歌の言葉は、自分のことで精いっぱいだった彼女が、流れ込んでくるほどの周りの人たちの温かさに気づいた証です。
Aqoursの練習には、指揮するリーダーがいるわけではありません。また、駅前でのビラ配りのシーンでは、千歌たちがヘルプを頼んだ3人以外にもいつの間にか1人、手伝っているロングヘアーの子が増えていました。これがAqoursです。手を重ねるのではなく、つなぐ。土台があって、そこにみんなが乗って高くなっていったμ’sとはまた違う、みんながひとつの輪になって作り上げていく。これがAq“our”sなのです。
「これまでのスクールアイドルの努力と、町の人たちの善意があっての成功」。ダイヤが放った言葉は、正論そのもの。でも、それならそれでいいんです。その土地に、その時代に生まれ育った者として、自分ではどうにもならない境遇に当たることもあれば、自分が思いもよらない恩恵を受けることもあるでしょう。だからこそ、それらすべてを受け止め、今そこに生きる者として動く。「今しかない瞬間」に輝こうとする。きっとそんな人が、思いを伝え、先に通じる扉を、“ユメノトビラ”を開くことができるのでしょう。
Twitterでも書きましたが、「流麗」な感想だなぁ─というのが、前回から通して感じた印象です。
ライブやパフォーマンスといったものに実際に触れている方からの言葉が強く感じられました。
その辺りを興味深く読ませてもらっています。
序盤の鞠莉の想像の斜め上を行く登場と配置。
そして、「ダイヤに邪魔されちゃ可哀想なので応援しに来たのデス」という言。
以前よりスクールアイドルを巡って何かしらの過去があると思わせて来ていたところに更なる伏線。
「応援」と共に「ハードル」を提示したのは、千歌・梨子・曜の3人の覚悟を見ると同時に─
ダイヤを納得させる必要性もわかった上での采配であったものかと。
ダイヤが単純にスクールアイドルを嫌っているのではなく、スクールアイドル…いやμ’sを崇拝する余りに他(Aqours)を許容できないと言っているような、“どこか”でよく見かけるようなそんな構図を持たせた挙句、ライブ直後の“一くさり”をわざわざダイヤに言わせたことに、意図を感じずにはいられません。
更に千歌達のアイ活に対する果南の距離感に対しても。
果南に関しては安易な推測はせずに、素直に心の「トビラ」が開かれるのを今は待ちたいと思っていますが。
「輝きたい」というメインテーマの他に「繋がる」ということを、やはり事あるごとに出して来ていました。
「決めたよHand in Hand」然り、「ユメノトビラ」然り、月夜の救いの手然り、そして今回のライブ前の円陣と「ダイスキだったらダイジョウブ!」も然り。
極めつけの旧友、姉たち、町の人たち、とこれでもかと惜しみなく。
なんとなく、作り手たちの所信表明に感じた、1~3話でした。
>拓ちゃんさん
えへへ、お褒めの言葉ありがとうございます!
せっかく実体験があるので、ふんだんに使っておりますw
あーなるほど、確かにダイヤのためって取れますね!
ハードルを超えるにせよ超えられないにせよ、2年生もダイヤも納得できるというか。
それでも一言いってしまうダイヤの姿も含めて、実はかなりメタ的なのかもしれませんね。
果南がスクールアイドルに近寄らないのも、その一環なのかもなと思うとおもしろいです。
「繋がる」については、Aqoursの物語はこっちでいくよ、という表明でもあった気がしますね。
今後もこれがキーになるのか、続く1年生の物語でも注視したいと思います。