考え方

自分で決めることの価値が上がっている

自分で決める

Go Toキャンペーンで高級旅館に泊まったら食事の量が多く、文句を垂らしたら炎上した人がいました。コロナ禍で小出しにできないから一気に出しただけで、旅館で食する量としては適量のように見えたのですが、そこで旅館側にクレームをつけるかのようなTweetをしてしまうのか……というのが正直な感想です。

昨今のインターネットでは、こういう文句を目にする場面が本当に増えましたね。と書いているこの文章もその中に入りますが、間違っていると思うものを断罪する気持ちよさには、抗いがたいものがあります。特にTwitterなどのSNSでは、言葉を練る必要もないから、条件反射的にクレームをつけてしまう人が多数見受けられます。そこに「言葉のパッケージング」の概念はないに等しく、しばしば強い言葉が使われているのが現状です。

そういう息苦しい世の中で、価値が上がっているんじゃないかと思うのが「自分で決めること」です。

自分が決めたことなら、100%のクレームは出てこない

自分で決めたことに対しては、自責の念に駆られたり後悔したりすることこそあれ、他人に文句を言うようなことにはならないはずなんです。だって自分で決めたことだから。その旅館を選んだのは自分、「食事の量は少なめでお願いします」と言わないことにしたのも自分、と思えば、件の人のようなことにはならないはずなんです。

まあ、よほど酷いことが起きたなら話は別ですが……でも自分で決めた部分が少しでもあるならば「100%向こうが悪い!」みたいな言葉は出てこないと思うのです。

この方が利用したGo Toキャンペーン開始時も「外出自粛させたいのか出掛けさせたいのかどっちなんだよ」との意見も散見されましたが、それは自分で決めること。あくまでも「ガワ」が用意されただけであって、家にいるもいないも、キャンペーンを利用するもしないも、自分自身が決めることです。

「決められる」ことが価値になる

インターネットと検索が発達して、簡単に正解が見つかる現代だからこそ、他責の考え方がすごく浸透してしまっている。だからこそ、自分で決められるということは、これからすごく価値を持つように思うのです。野球の例えになるけれど、「ここは確率的にバントだろ」という決め方をしていると、次に進むことができなくなります。せめて大事なことだけでも、意識的に自分で決めるようにした方がいい。

自分で決めたことが失敗することも、もちろんあります。でも、生きていく中で、自分が決めたことも、そして他人が決めたことでさえも、0点か100点かなんてことはない。67点だったり41点だったり85点だったりするもんです。つまり、損をするのが当たり前なんですよ。何もかもパーフェクトな旅行なんてない。天気が良くて+60点、旅館の食事の量が多すぎて-19点、でもめっちゃ美味しかったから+40点、今回の旅行は81点! その点数を受け入れながらゆっくり歩んでいくのが、大袈裟な言い方をしますが「生きていく」ってことなんじゃないかと思うのです。

決めたことで損をするのが当たり前

自分で決めたことで、損したっていいんです。それが当たり前だし、むしろ損した経験ーーつまり67点だったり41点だったり85点だったりを取った経験が、何もしないでただ正解を待っている人よりも優れた“選球眼“をもたらしてくれる。だから、どんどん決めていきましょう。迷ったっていいと思います。それが普通です。その迷いや悩みを超えて何かを決められたら、「決められた自分えらい!!」と褒めてあげてみてください。そうすればきっと、色々なことがもっと楽しくなっていくんじゃないでしょうか。

そして解釈の余地が作者ではなく我々の手に委ねられているとき、私はこうも感じるのだ――人生に意味があるかないかが問題なのではなく、お前が人生にどんな意味を与えるかが重要であると。このゲームがどのように敵を撃たせるかが問題なのではなく、お前がこのゲームのなかでどう敵を撃つかが問題であると。
【電遊奇譚:其二十六】ゲームは人生の解釈である(中編)

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