「愛されるスクールアイドルを演じたいと思っています」
「皆さんにとって理想のアイドルを想像して、その子になりきるんです」
この桜坂しずくの言葉に「あ、言っちゃうんだ」と思わず口に出してしまいました。一見すると演劇部らしいコメントに新聞部の生徒は喜んでいましたが、清々しいくらいの「作っています」宣言。素でなければアイドルじゃないとはまったく思いませんが、「あなたが見ている私は偽りの私です」と公言するのも珍しい。
しかし改めてこの取材シーンに戻ってくると、しずく自身もそれがイケナイコトだとわかっているようにも見えるのです。あえて他人に言うこと自体が、ずっと心の中にジレンマを抱えるしずくのSOSサインだったのではないでしょうか。
桜坂しずくが届けたい「私の歌」
藤黄学園との合同演劇祭の演目で、1年生ながら主演を張ることになったしずく。しかし、演劇部の部長から主役降板を言い渡されてしまいます。その理由は「自分をさらけ出す感じで演じてほしかった」から。主役の“表と裏”をあらわにし、最後にそれが一つになる結末、そして裏を演じるのが部長であることを考えると、確かに必要なことでしょう。
しかし、しずくには「自分をさらけ出す」ことができない。人と違う嗜好を理由に、変に思われること、嫌われることを怖がる彼女は、そこから逃れる術として「演技」を始めました。みんなに好かれる良い子を演じれば、堂々としていられる、誰の目も気にしなくて済む自分が手に入るからです。
そもそもの始まりは、幼い子ながら古い映画が好きだということ。好きというのは感情ですが、感情は自分自身と言っても過言ではありません。なにせ感情は表に出すことは抑えられても、生まれることは絶対に抑えることができない。「感情を殺す」と言いますが、殺そうとしている時点でもう生まれているのです。
今回は演劇パートがモノローグ代わりになっていてわかりやすいですね。「私、歌いたいの。たくさんの人に歌声を届けたい」とは白しずくのセリフ。歌に込めるのは「喜びと感動と少しの熱狂」、つまり感情です。自分自身の素直な感情を表現し、たくさんの人に届けたい。それが「私の歌」なんです。
けれど、楽になりたいがゆえの処世術として本当の自分を隠すようになった。「自分を偽っている人の歌が、誰かの心に届くわけがない」と訴えるのは黒しずく。しずく自身、嘘の自分を他人に見せ続けていることを自覚しています。
自分をさらけ出した方がいいことはわかっている。何より、同級生である天王寺璃奈が自分なりの解決策を見つけて、壁を打ち破った姿を目の前で見ています。自分をさらけ出すことで、何か新しい道が拓けるのでは……それがわかっていても、それでもできないから苦悩する。心が裂ける。
「嫌い、こんな私」とひとりごちる彼女が嫌うのは、人と違う嗜好を持ってしまった自分か、自分をさらけ出せない自分か。自己否定のループは止まりません。
どんな自分も受け入れる覚悟
おそらく、この時のしずくは二者択一の思考になっていると思います。偽りの自分と本当の自分、いずれかしか選ぶことができない。本当の自分を選んだ方がいいのはわかっているけれど、どうしても偽りの自分を選んでしまう。
けれど、偽りであろうと本当であろうと「自分」なんです。「ペルソナ」という言葉もありますが、私たちだって相手や場所によって異なる自分を出している。仕事をしている時と友達と一緒にいる時、友達と一緒にいる時と家族と一緒にいる時が違う人は、私を含めてたくさんいます。
そして、異なるペルソナであろうと、芯になる部分はやはりあるもの。しずくにとってのそれが頑固さです。理想のヒロインに頑固さって必要ないように思うのですが、偽ることができないくらい出てしまうパーソナリティがある。だったら、偽りの自分であろうと自分自身です。そもそも他人の目を気にするしずくが、主役降板を言い渡されても譲らずにもう一度チャンスを請うたこと自体、頑固なしずくそのものの表出であるように思います。
どんな自分でも、自分は自分。それを理解していたのが、中須かすみでした。
かすみも自身のペルソナに自覚的で、素の中須かすみとスクールアイドルとしての中須かすみを使い分けています。素顔の自分、人にかわいく見せたい自分、誰かにとってかわいい存在になりたい自分。ウラオモテ全部わかっているし、彼女自身がそれらを受け入れている。
そんなかすみが身を持ってしずくに示したのが、自分をさらけ出す行為がどう思われるのか、でした。
自分で自分のことをかわいいと思ってはいるが、褒めてくれない人だってたくさんいる。その中の一人である人間に、面と向かってかわいいかどうか聞いてみる。すごいですよね、相当の覚悟がないとできない。ペルソナを複数抱える自分を受け入れているのもそうなんですが、他人から見た自分も自分であると覚悟しなければ、これはできないことです。
でも、ここまでさらけ出してみると、意外と自分の言ってほしい言葉――すなわち「かすみんはかわいい」という言葉が返ってくるものです。つまり、そう言ってくれる人がいるということ。その人にとっての「理想のヒロイン」に、ちゃんとなれているということです。思い切ってさらけ出せば、古い映画や小説が好きなことも、主役降板の危機にさらされて悩んでいることも、全部ひっくるめて桜坂しずくという人間を受け入れてくれる人がいる。それを「大好きだから!」という言葉で示したのがかすみなのです。
少々強引で、もしかするともっと上手いやり方があったかもしれません。それでも、まっすぐすぎる言葉が胸を打ちます。安心していいんだよしず子。本当の自分をさらけ出せば、確かに嫌う人が出てくるかもしれない。けれど、それ以上の「好き」をぶつけてくれる人だって出てくるから。
灰色の私
「私、それでも歌いたいよ」という黒しずく。「歌いたい、その気持ちだけは真実」という白しずく。「私の歌」を歌いたいという思いこそが、しずくの芯たる部分なのでしょう。それを受け入れ、「これが私、逃れようのない、本当の私」と、黒しずくという自分自身、そして黒しずくを演じる他人である部長に宣言することで、黒と白、そして二つが混ざりあった灰色の私が生まれます。
人は元来Solitude=孤独であり、孤独であるからこそ、そんな自分をさらけ出すことで人とつながることができる。大勢の観客が見守る中で自分自身を表現したしずくは、ひとつの壁を乗り越えたと言ってもいいでしょう。合同演劇祭前の取材ではカメラの前にいなかった彼女は終演後、自らに向けられたカメラに向かって、自分の思いを言葉にするのでした。
「私は大丈夫」
第六話振り返り生放送で、璃奈役・田中ちえみ氏が「璃奈が『何でもない』と言うが、今まで何度この言葉を言ってきたのかを思うと、とても切ない」と発言していました。しずくも、何度「大丈夫」と言ってきたのだろう。
サンシャイン!!の時に、一年生はボッチ体質があると気付きをいただきました。それに倣うと、虹ヶ咲の一年生の属性は「仮面」なのかもしれません。
物理的な仮面の璃奈も、”可愛いかすみん” で完全武装するかすみも。
かすみは矢澤パイセンに似て不器用で、しずくを励まそうとして失敗もして。でも、不器用だからこそ、迷う事無くしずくの心に踏み込んで行ける。その姿が愛おしく頼もしく、眩しく感じます。
璃奈は、しずくの言葉を聞いて目を見開くカットが印象的でした。それほど強い衝動であった事は勿論でしょうが、自身が変化した部分もあるのだと思います。
前半で、いろは達と極々普通に友達していたり一年生組で遊びに行ったりと、璃奈が一個人として繋がっていられる描写がなされます。
それまでの璃奈は常に愛さんが連れ添うように描かれていたことを考えると、そこから独り立ち出来たのだなと分かります。
そういえば、6話冒頭のガラスに笑顔の口を描くシーンや中盤の自分の無表情を再確認してしまうシーンには愛さんが居ないし、1話の初登場シーンでも愛さんが現れるまでは無言無表情。
愛さんが居ないと、声が出せなかったのか。いや、愛さんが居れば話せるのか。
愛さんが璃奈ちゃんボードを発案するんじゃなくて、愛さんがボードそのものだったのか。と思う次第。
仕事に忙殺されて更新できない間、コメントへの返信もかなり滞ってしまいました。すみません……!
歴代シリーズでも1年生3人は似たような悩みを持つ子が多かったですが、おっしゃるとおり虹ヶ咲の1年生は仮面というのがしっくり来ますね。
1年生らしく不器用な子ばかりですが、だからこそ残っている真っ直ぐな気持ちがみずみずしいし、
璃奈のようにみるみるうちに変化、成長していく姿を見ているとうれしく思ってしまいますよね。
愛さんのような人が璃奈のボードになっていたというのは「なるほど!」です。
璃奈はずっと他人との間に壁があっちゃダメだと思っていたと思うんですが、壁があってもいいんだ、コミュニケーションできるんだと気づいたのが6話。
でも人間って不思議なことに、壁があってもいいんだと思えると、却って壁がなくても大丈夫になったりしますよね。
観察していて一番おもしろいのは璃奈のように感じます。