ラブライブ!

映画と2期11話はまったくの別物である―映画版「ラブライブ!」感想(第6回)

 映画の初日は6月13日、その次の日はTOKYO MXにて2期11話の再放送でした。

 当時、「終わり」を描いた映画を見た後に2期11話を観たらどうなるだろうと、すごくドキドキしていたんです。何か新しい感覚で見ることになるのだろうかと。

 しかし、再放送後は拍子抜けするほど何も感じませんでした。Twitterでは「やっぱり映画のあとだと違うわー」みたいな声も聞かれたのですが、僕は2期11話と映画はつながるようでつながらないような、同じデパートの中に入っている地下の食料品売り場と最上階のレストランのように感じられたのです。

 では何が違うのか、何がつながっていないのか。そもそも、彼女たちが悩んでいる問題がこの2つでまったく異なっていたのです。

 

μ’sが抱える悩みの違い

 改めて2期11話を見てみると、μ’sは「3年生が卒業したあともμ’sを続けるのかどうか」を悩んでいます。その中身は、3年生がいなくなって新1年生が入ってきてもそれはμ’sなのかということ。この9人でないμ’sも「μ’s」たりうるのか、ということです。

 彼女たちの出した結論は「この9人でなければμ’sではない」でした。だから、3年生が卒業したらμ’sではなくなるので、終わります。1期10話で、昇る朝日の前で本当の意味で一致団結した彼女たちが、このお話では沈む夕日の前で終わりを宣言するというこのコントラストは、何度見ても心を揺さぶられるものがあります。

 では映画版はどうなのか。映画では、みんなに終わりを伝えるライブをしようと決めた直後、理事長が部室を訪れるところがターニングポイントです。理事長が持ちかけてきた話は「何とかこの9人で続けられないか」ということ。「3年生が卒業してスクールアイドルとして活動できないなら、何か他の形でも構わない」とも言っています。

 つまり、映画版では9人であることを前提にして「続けるか、続けないか」という選択を、μ’sは迫られていたのです。

 しかも、選択しなくてはならない状況に自発的に踏み込んでいった2期11話と違って、映画では外から持ちかけられた話。同じ「続けるか、続けないか」であっても、その質は全然違うのです。

 映画のあとに2期11話を見てもピンとこなかったのはこのせい。僕はこの2つを、似て非なるものだと感じたのだと思います。

 新たな問題をふっかけられたμ’sは、再び悩みの渦に陥ります。映画ではその悩む姿を、リーダーである穂乃果にフォーカスを当てて描いていますが、彼女を見ていると思うのです。もしかすると穂乃果には、μ’sを続けたい気持ちがまだ残っていたのではないでしょうか。

 

「スクールアイドル」を選んだ理由

 女性シンガーが過去にグループで歌っていたということへの食いつきっぷり。そして一度決めたことにまい進する穂乃果が、降って湧いた「続ける」という選択肢に惑わされている。続けてほしいと求められていることに流されかけてしまうのは、自分の中でもまだ揺らいでいるからのように感じられます。

 では何のために続けるのか? 何のために歌うのか? 次にやるライブは、何のためなのか。「みんなの前で終わることを伝える」ためなのか、「今の熱を冷まさないため」なのか。やっぱり続ける足がかりのライブなのか、ライブをやって終わるのか。彼女の悩みは、ここにあります。

 

 穂乃果は、女性シンガーを通じて自らと向き合いました。彼女の原点は「学校が好き」。学校が好きだから、“スクール”アイドルを始めた。学校が好きなだけでは、アイドルを始めることはできません。でも、スクールアイドルは始めることができた。穂乃果が好きと話した「学校」「歌」「アイドル」、この3つを内包しているのは、スクールアイドルだけなんです。だから、思い切り夢中になれて、最高に楽しかった。

 そして、穂乃果だけでなく、μ’sそれぞれの心に“女性シンガー”がいたはず。だから、同じ答えが出る。真姫が「めんどくさいわよね」と評したように、言わなくても伝わる。みんなスクールアイドルが好きで、スクールアイドルだからこのメンバーと出会い、スクールアイドルだからここまで来た。それゆえに彼女たちは、必ず終わるスクールアイドルでいることを選び、スクールアイドルってこんなにステキなんだよ! と歌うのです。

 これは、ラブライブがドーム開催されるか否かという刹那的な熱気の問題じゃない。もっと大きくて、ずっと長く続くモノ。スクールアイドルをひとつの「文化」として根付かせた、μ’sの“置き土産”です。

 

 「終わる」からこそ、「次」があります。でも、この「次」を描き切ったアニメのアイドルは、なかなかいません。「ラブライブ!」はTV版で十分、映画版はオマケという見方もありますが、決してそうではないのです。

 「次に何を残すか」も、μ’sの物語。なぜならμ’sは「次に学校を残したい」というところから始まった物語なのですから。

POSTED COMMENT

  1. 拓ちゃん より:

    第2期11話は「”私たち”が決めたこと」──
    3年生の卒業という第2期の『大命題』に対し、真正面から向き合い全員で答えを出していました。
    穂乃果が言うように「やりたいからやるんです!」で始めたことですが、「廃校阻止」⇒「入学者を増やす」⇒「知名度を上げる」⇒「”何か”やって目立つ」…という論理展開の末に”何か”を”スクールアイドル”としたことが物語の原点。
    それこそサンシャインでは更にメタになって「助けて!ラブライブ!」にまでなってしまっていますがw

    第1期でとりあえず「廃校阻止」に手をかけたものの、より確実とすべく第2期冒頭で立役者たる穂乃果を生徒会長へ就任し、そして降って沸いた第2回ラブライブ!開催に対し、卒業する3年生と共に足跡を残すべく優勝目指して奮闘を繰り広げてきた末の『大命題』はあくまで”私たち”…μ’sの面々であり、広げてみたとしても音の木坂学院までがその範疇でしょう。

    軸となり、ここまでやって来れたのは”スクールアイドル”という誰しも手を伸ばせるものでありながら、”ラブライブ!”という目指すべき栄冠があったればこそ。
    高校野球での甲子園、高校ラグビーでの花園…これらのチームはやはり高校時代の期限付きのものであり、それが当然です。
    しかし、そこで傑出したタレント達はそういった学校の枠組みの「外側からの”力”」に晒され、その後の方向性に大いに影響を与えられます。
    今回の劇場版はまさにこの「外側からの”力”」が目に見える力でかかったものであり、かかるタイミングとしてはやはり、ラブライブ!優勝後のあのタイミングで然るべき。

    こうやって並べれば、確かに第2期11話と劇場版では、穂乃果を始めとした”私たち”が向き合った問題は全く質の異なるものであることが明白です。

    まぁ、大命題を突きつけられていたのは、取り巻く我々”ファン”の方だったとも言えますね。
    今の人気絶頂期にこのビッグコンテンツの幕引きをするものだろうか、という……
    こちらの意味合いでは、状況とニュアンスが微妙に異なるものの、映画初見時には「この話を混ぜっ返すのかよ!」と正直に思いました。
    これが第2期11話と劇場版が描いた「終わり」のあり方が繋がっているように錯覚したものじゃないか、と私は思っています。

    結果は、我々に対してどちらも似てるけど僅かに異なった角度で”答え=スクールアイドルにこだわりたい”を提示されたものと考えます。
    入ってきたところと通っている道が全く違っているわけですが、出口は似通ったところに出てしまった感が否めません。

    TVアニメが進んできたのは『みんな”で”(想いを)叶える物語』であり、
    劇場版で直面したのは『みんな”の”(想いを)叶える物語』へと変質したものであったと感じています。
    それでも穂乃果達は真剣に悩んで考えて、その上で最高の形で応えてくれたことに感謝の念に堪えません。

    • bakainu より:

      拓ちゃんさん

      とても丁寧に解説してくださり、ありがとうございます!w
      映画版はアニメの中の物語であると同時に、とてもメタメッセージ的ですよね。
      2期11話は自分たち自身で決めたものですが、現実は現実ゆえに彼女たちの周りにもっとたくさんのモノが絡んできます。
      ビジネス的意味合いも無視するわけにはいきませんものね。

      そのさまざまな絡みをアニメに落とし込んで、それでも「終わるったら終わる!」という答えを、
      劇中にも劇外にも示したのが映画版だったかなと思っています。

      2期11話は「μ’sだから」でしたけど、映画版は「スクールアイドルだから」で出した答えでしたね。
      いずれでも、自分たちの出した答えをきちんと貫いて表現したことが、本当にすばらしいと思います。

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