はねバド!

「好きだから」をぶっ潰す―「はねバド!」第11話感想

太郎丸美也子が立花健太郎に語った「努力と才能」の話は、話者は異なれど原作にもあるエピソード。アニメではこの「努力と才能」というテーマをずっと描き続けていて、二人の会話は「はねバド!」という作品そのものが語っていることと言ってもいいでしょう。

荒垣なぎさのことは、この3ヶ月で上達したと評する健太郎。特にメンタルの成長が著しく「スケールの大きなものを感じる」と話しています。一方で羽咲綾乃に対しては、「特別な才能」を与えられた存在という見方が強い様子。そんな健太郎に対して美也子は、綾乃も努力を重ねてきたことを忘れてはいけないと優しく諭します。

確かに、あからさまに他人を見下し始めたあとも、このエピソードのAパートでも、綾乃は真面目に練習をしています。「努力と才能を線引きして考えることなんてできないはずよ」という美也子の言葉には首肯するばかり。才能のあるなしにかかわらず、今の彼女たちにたどり着くまでの努力を、なぎさも綾乃も重ねてきたのです。美也子もああいうパーソナリティを持つ人ですが、だてに教師をやっていないですね。

バドミントンはネットを挟んで1vs1、多くても2vs2で対峙するため、個々の優劣が見えやすい競技です。そしてバドミントン……いえ、スポーツに限らず、圧倒的な実力を目にすると、人はそのまばゆい光から目を背けるように「才能」という言葉で納得しようとします。「普通はできないことができる」「他人が努力しても同じにはならない」と考え、間にネットを張るように「才能型」と「努力型」に分類してしまう。そして、得てして努力型の方に理解を示し、シンパシーを感じるものです。

努力型にシンパシーを感じやすいのは、変化がわかりやすいからでしょう。人が誰かのことを継続的に見られるのは、家族など限られた存在を除いてせいぜい数年。しかもティーンは学校や学年で区切られています。そのわずかな時間の中で変化するから、努力型はわかりやすいのです。

才能型と言われる人は最初からある程度完成されています。もう一段ステージをあげるには、それ相応のきっかけや環境が必要です。努力型よりもずっと、変化がわかりにくいのですね。しかし、もとよりいる高いステージに登るために彼らがやってきたことは、努力型と同じです。練習なりなんなりの「積み重ね」があるはずなのです(それが辛いか楽しいかは別かもしれませんが)。

「才能」というものは存在します。でも、それを「努力」と対比させることは違う。「才能がある」と言われている人だって、努力せずにそれができるわけじゃない。才能は努力に内包され、努力も才能に内包される。異なるルートを歩んできたなぎさと綾乃ですが、コートは平等です。同じ試合、同じコートに立つ以上、彼女たちはそれに値するものを積み重ねてきた人たちなのです。

じゃあ、それができたのはなぜなのか? なぎさは「バドミントンが好きだから」。では綾乃は――? 母のため、仲間のため、そしてなぎさと同じく「好きだから」という時期もありましたが、今はそのどれでもないようです。

この第11話の冒頭で、少しばかりですが神藤有千夏が綾乃を置いていった理由が語られました。綾乃が、自分と一緒にいたくてバドミントンをやっていたことを知った母は、自分がいなくてもバドミントンができるように、娘から離れたことが伺えます。

そんな有千夏に対して「何のためにバドミントンをやってきたの?」と問う綾乃。その答えは「好きだから」でした。

母に捨てられたのは、「私を鍛えるため」だと綾乃は思っています。彼女は有千夏に“復讐”したい。だから、母の思惑通りに育った上で、「今度は私からお母さんを捨て」ようとしています。バドミントンの実力とともに育った復讐心、それが「好きだから」バドミントンをやっている人間に対しての敵対心に変わっているのではないでしょうか。

「好きだから」バドミントンをやっている人にとって、「好き」の気持ちはバドミントンにおけるアイデンティティです。だから、徹底的に叩きのめし、辛辣な言葉を投げ、リスペクトを怠る。綾乃が対峙する相手、バドミントンという競技の向こうには、いつも自分を捨てた母親がいるのです。

ただし、ここはインターハイ予選・決勝戦のコート。ネット越しにラケットを振るう相手も、今までとは違います。“最強の「好きだから」プレーヤー”に対して、綾乃はどう対峙するのでしょうか。

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