「放っておいてくれ」と言うなら、人として当たり前になるしかない

 しばらく前の話をぶり返してしまいますが、fripSideライブのサイリウム問題を目にしました。使い終わったサイリウムを、あろうことがライブハウスにポイ捨てするという所業。詳細は下記サイトが詳しいと思います。
http://yusaani.com/special/2014/10/14/29807/

 

 これを読んで思い出されるのは、今年のアニサマ当日券の待機列でのことです。
http://matome.naver.jp/odai/2140942929774618401

 

 このNaverまとめは、記事下のコメントについて引用元の記載はなく、鵜呑みにするわけにもいきませんが、少なくとも現地の写真については確かなものではないでしょうか。

 「まとめ」というのは得てして恣意的なものだし、悪意で作ることもできます。アニサマの一件を取り上げたまとめブログについて、こういうまとめ方は嫌いだという意見も目にしました。

 でも、だからといって楽しかった記憶や美しい思い出だけを残して、ゴミとともに道端に捨てられたマナーに目を向けないのはおかしいと思います。

 

 

 1,2カ月前だったでしょうか。「TVタックル」というTV番組でアニメの規制に関する特集がなされました。規制ありきの構成になっていて、僕のTwitterを見る限りでは、オタクさんからかなりの反発がありました。

 その中でよく見られたのは「放っておいてくれ」という言葉です。

 

 この社会に生きている以上、部屋から一歩出れば誰かしらとつながります。外にいれば、いえ、外に出ずとも家族と一緒に暮らしていれば、誰かの隣に位置するし、誰かの目に入ります。一人で暮らしていたって、賃貸であれば大家さんとの関係がある。持ち家だったとしても、隣の家とのつながりがある。必ず、人と人はつながっています。これはもう、どうしようもないことなんです。

 ではその中で「放っておかれる」というのはどういうことか。その存在が目に入っても、「目につく」ことがないということです。

 

 「放っておいてくれ」と望むならば、人として当たり前のことをやり、「目につかない」存在になるしかないんです。

 ゴミは持ち帰る。

 人を押しのけたりしない。

 身体、服装を不衛生な状態にしない。

 ……。

 

 オタクさんなど、何かに熱中する人は、ともすれば本能的になりがち。言葉についても、行動についても。しかしそこで理性的に振る舞うこと、外から見て恥ずかしくない人であることで、初めて放っておかれます。

 人が服を着るのは、環境や社会に適応するためだという意見を目にしたことがあります。恥ずかしい「服」を着ていないか、すぐ「裸」になっていないか、僕らは気にするべきでしょう。往来で「裸」になっていたら、そりゃあ糾弾されても仕方がありません。

 

 

 もちろん、オタクのみんながみんなそうじゃないのはわかっています。けれど、そういうのは「一部」だから……と切り捨てるのも、筋が違うと最近思うのです。

 ましてや「芸能人の○○だってアニメファンだ!」と「一部」を主張して市民権を得ようとするのであれば、余計に「一部」を切り捨ててはいけないでしょう。

 もう、芸能人のように社会的に認められている人を掲げて市民権を得ようとするのはやめませんか。これからはオタク一人ひとりが社会性のある人間らしさをもって、居場所を作らないといけないと思います。

 「ゴミを持って帰る」なんて、本当に些細で当たり前なことだけれど、僕らはこういうところから大事にしないといけないのです。

 

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