自分のアニメ考察について、僕の思うこと

 なんだか恥ずかしいタイトルではありますが、自分で自分の文章についてちょっと理解できたということもそうそうないと思うので、書き記してみようと思います。

 

 先日書いた「『ラブライブ!』10話でなぜ絵里はお礼を言った真姫に『ハラショー』と返したか」が、嬉しいことにたくさんの方に読んでいただけたようです。ありがとうございます! 本当にありがたいです。

 

 ちょっと嫌らしいかなと思いながら、でもやっぱり反応が見たくって、TwitterでRT等を少し追いかけていきました。「感動した」とのお言葉には予想外すぎて嬉しいと同時に驚いてしまったのですが、「考え過ぎかも」というお言葉には、りっぴーの口ぐせよろしく「確かに〜!」と首肯しちゃいました。

 

 怒るとか癪に障るとか、そういうことは全然なくて、やっぱりそう思われちゃうよねという感じです。僕は結構考えすぎるのです。

 

 

読み取りたいのは制作陣の思考ではない

 上記の記事は、かなり細かいところに突っ込みました。物語全体の考察、1話丸々の感想ならまだしも、ひとつのセリフにそれなりの文章量をもって言及しました。

 

 果たして制作陣がそこまで考えて脚本を書いたか? コンテを切ったか? 答えはおそらくノーでしょう。あんなところまで考えていたら、逆にストーリーががんじがらめになってしまいます。

 

 

 ただ、 僕にとって自分のアニメ考察(と言っていいものか)なり感想なりは、制作陣の考えを当てることを目的としているわけではないのです。

 

 

 脚本を評する技量もなければ、コンテ・演出を紐解く知識もありません。じゃあ自分は何をやっているのかと考えたら、キャラクターの心情を僕なりに想像して、筋道立てて書こうとしているということに気づきました。

 

 

ひとりの人間を追って

 時折、漫画家さんや小説家の方の口から、「キャラクターが勝手に動いた」という言葉が出てきます。現実の子どもよろしく、キャラクターもまた、生みの親が想像もしない考えをもっていたり、行動をしたりするものだと僕は思います。

 

 キャラクターをひとりの人間として観ていると「ラブライブ!」12話の感想(ラブライブ!第12話「ともだち」感想 または無責任でダメな穂乃果を見せた意味は)でも書きましたが、そうやって観ている限り、脚本の範囲内にしかキャラクターの心情や行動が存在しない、ということはあり得ないのです。

 

 ラブライブ!で言えば、京極尚彦監督も、花田十輝さんも、公野櫻子さんさえもあずかり知らぬところで、μ’sのメンバーが思考していたり、感じていたり、行動していたりするはずです。僕はそこを追いかけて書くのが好きだし、またそこを追いかけて書いているつもりです。メタ的にキャラクターの心情やら行動やらはあんまり書いたことないと記憶しているのですが……どうですかネ。

 

 キャラクターが勝手に動いているところというのは、「考えすぎ」なくらい考えないと、少なくとも僕にとってはなかなかたどり着けない場所です。なので、これからもいっぱい考えて、想像して、エントリを書いていきます。お好きな方がいらっしゃいましたら、どうかお付き合いくださいね。

 

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