子どもと大人の対比が美しい映画「スパイダーマン:ホームカミング」

都合、何度目かのスパイダーマン誕生の物語、「スパイダーマン:ホームカミング」。けれど、過去の作品で語られた“ガワ”の部分、つまりピーター・パーカーの境遇や、彼がスパイダーマンになる仕組みの部分は、舞台設定でうまく回避しています。

例えば、ピーターの友人であるネッドに太っちょなルックスを当てはめることで、ギーク同士の関係性を表現し、同時にピーターの“冴えなさ”も表しています。また、「(自分を噛んだ)クモは死んだ」という言葉も、ムダな説明を省いた名台詞です。

にしても、今回の「スパイダーマン」は歴代作品に比べてスタイリッシュさを消していった印象があります。それはどこから受けるものでしょうか?

大きなポイントは、この映画がティーンエイジャー特有の心理と、(ピーターが思っている)スパイダーマンの役割のジレンマで物語が彩られていることです。例えば学力大会で遠征した際、ピーターは自分の好きな女の子にプールへ誘われながらも、スパイダーマンとして武器密売の現場に踏み込むことを選びました。

15歳の高校生として、学校という狭いながらもオンリーワンな世界と、大人の思惑と善悪が混濁する広い世界との間にいるピーター。ハッピー・ホーガンという「大人」に相手にされない、でもスパイダーマンを諦められないからクラスに溶け込む機会も逃してしまう。歴代スパイダーマンよりスタイリッシュではないのは、その不器用さゆえのことです。そして不器用だから、ジレンマを解決することもできない。

けれど、そんな合間の世界にいながらも、そして情けない姿を見せながらも、ピーターはずっと目標をブレずに見据えています。すなわち、スパイダーマンとして活躍し、トニー・スタークに認められること。フェリー事件から、ピーターはその目標により真剣に向き合いました。

地に足をつけて隣人を助けること。それが、スパイダーマンであるということ。だから彼は最後もバルチャー=エイドリアン・ドゥームスを助ける。ピーターにとってドゥームスは、好きな子の父親、つまりは「隣人」なのです。そのまっすぐさは、不器用なティーンエイジャーゆえに持てるもの。期待と責任、そして可愛らしい「ごまかし」をもって大人のあり方を示したトニーとの対比が美しい。もちろん、家族の愛を示したメイおばさんの存在も大きいでしょうね。

最後にピーターは、あれだけ心酔していたトニーの誘いを断り、隣人の助けになる存在であることを選びました。それは、「トニーに認められる」という自分の目的が達成されたから。彼にとってはそれで十分――というか、その選択さえも、トニーに認められるためのものなのです。そして、トニーもまた子どもの決断を尊重しました。

子どもは時に、そのまっすぐさで大人の考えを超えていく。だから興味深く、そして目が離せないのでしょう。

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